ふいちゃんの中国日記

つれづれ編/旧東海道53次編

東海道53次 茅ヶ崎→大磯 (写真添付)

2015年1月4日

2014年12月中旬、茅ヶ崎→平塚→大磯の約11kmを歩いた。普通のウォーキングだったら2時間ちょっとで済む距離だが、例によって歩く速度は遅いし、ガイドは自分の言葉に酔って長々と途切れることなく説明しているしで、神経を長時間集中できないこちらとしては写真を撮るほうに注力。
多くの人がメモを取りながら熱心にガイドの話に耳を傾けているのに対し、こちらはメモなどまったく取らないから細かな木や花のなどは帰りのバスに乗ったころには大体忘れている。メモを取りながら写真も撮ることは実際上できないから止むを得ない。
旧東海道は富士山の南側にあるから旧東海道を西へ向かっていると富士山はほとんど右手に見えている。だから、富士山が左手に見えるところは「左富士」と特別に呼ばれている。この区間にも「南湖の左富士」と呼ばれる所がある。簡単に言えば西へ向かっていた道が北へ方向を変えているのである。
方向を変える理由は津波である。日本列島は地震とそれに伴う津波で過去多くの被害を被ってきた。江戸時代、津波で被害の大きかったところは道をかなり内陸へ寄せて復旧している。だから、その部分は道が北方向になるので左富士になるのである。しかし、位置的に富士山の西側の場所では道が北方向へ向きを変えても常に富士山は右手になる。
旧相模川の橋脚には驚かされる。関東大震災のときの液状化現象で昔の橋脚が露わになったもの。当時は今とほぼ直角の方向に川は流れていたことが伺える。橋脚の材料は大木で、土の中に埋もれていると腐りにくいのだそうだ。調査が終わった後は土の中へ打込まれて、今見えているのは複製品とのこと。
この近くに「馬入の渡し跡」が残っている。武蔵の国稲毛の領主、稲毛三郎重成が亡妻の冥福を願い、相模川に橋を架け建久9年12月28日にその落成供養を行った。源頼朝は多数の家臣を引きつれてこの式に参列した。帰る途中鶴嶺八幡宮付近にさしかかったとき義経、行家ら一族の亡霊が現れ、乗っていた馬が棒立ちになり頼朝は落馬して重傷を負い、翌年一月に死去したそうである。
以上は看板の説明書きである。しかし、ガイドの説明では内容がかなり違っている。つまり、源頼朝が旧相模川に馬に乗って入ったとき、源頼朝が落馬してそれが原因で病気になり一ヶ月後に亡くなったというのである。また、頼朝が馬に乗って旧相模川に入ったので、その場所が「馬入(ばにゅう)」という地名になったという。看板の説明が正しければ、頼朝は破傷風にでも罹ったのではないか。
またこの近くで祭りのとき、集落と集落との若い衆が喧嘩になり、死者が出たので喧嘩した双方の十数人が打ち首の刑を言い渡されたが、処刑時に全員がちょんままげを切られただけで、前途ある若者に首切りの刑は忍びないと無罪放免になったそうである。
現在、平塚で売られている「ちょんまげ最中」の「ちょんまげ」はそこから由来しているとのこと。最中の形状がちょんまげ顔の形になっているものの中味は他の最中と同じようである。しかし、味は甘味がほどよく抑えられていてなかなかおいしい。
平塚には「番町皿屋敷」のモデルとなった「お菊」の墓がある。また、平塚は「平塚七夕祭り」が有名であるが、それを仕切っているのは表社会の人ではないようで、その関係か平塚は歓楽街が多く街全体が騒々しい。すぐ西隣りの大磯に入ると途端に雰囲気がガラッと違ってくる。大磯は静かな町で昔から政府要人の別荘があった地域である。吉田茂の別荘も大磯にあったとのこと。